現在、フィリピンの番組を見ていると、所狭しと、大統領候補のCMが挟み込まれています。その後に「This is a paid advertisement」。「これはお金を支払われている広告です」と付け足されています。
チャンネルによるかもしれませんが、ロハス氏、ドゥテルテ氏、ビナイ氏のものをよく見ます。特にロハス氏の回数が圧倒的に多く、組織の力を感じますね。こうした状況はフィリピンでは当たり前だったりするよう。
道路にも、候補者のビラや幟があちらこちらに立っています。
先日調べたブログ「フィリピンとセブ島の政治をおさらい!2016年フィリピン大統領選に向け、セブ島の事情も含め、政治体制・行政区分(行政の長)・政党・候補者・現在の状況などについて調べてみた。」http://yoshi-jpn.com/3728/)のおかげで、よく流れがわかります、というステマ(笑) 真面目な話って読まれませんよね、ほんと。。。
そしてこれでも元新聞記者。「政治の中立」ってなんなんだろうと、セブのローカルバスの車窓から見える道路脇のたくさんのビラを見ながら思いました。
記者当時。ある市長選で2人の候補者が紙面の1面を飾っていました。しかし翌朝、会社には一方の候補者の支援者からクレームが入ったのです。
それは何か?
片方の候補者は、写真でタスキの名前が見えており、もう一方の候補者のタスキの名前は写真の中で見えていなかったため。そして翌日の紙面で、先輩たちが逆の状態の紙面をつくったりしていたのです。
はっきり言って、「新聞の力を過信しすぎじゃない?」と当時思ったもの。そんなところ、誰に、どれぐらい影響するもんだ?負けた時の言い訳にしたいんだな、と率直に思ったものです。「実力不足」なんて誰も認めたくないもんですからね。
広告を出せるのも財力・組織力という力。もしこうした力をきちんと「力」と認めるなら、フィリピンのやり方も正当性を帯びてくるわけですよね、下品に見えるかもしれませんが。
泡沫候補も含め、丁寧に平等に扱うことが「政治の中立」。これが日本で言われる「政治の中立」。
新聞社への入社試験の1つのグループディスカッションで、他の応募者たちが「新聞の中立性が、、、」という流れで終わろうとする中、「新聞に中立性なんかないでしょ。新聞はその社が持つ“色”を反映させた意見を紙面に反映させるわけで、それが中立だなんてありえない。だからこそ、その情報の偏りに意識を働かせ、自省し、論理を一貫させ、あとは紙面を読んだ読者に、ここは賛成だけど、ここは違うと考えてもらうようにするのが役割でしょ。新聞が中立だなんて考えて、情報に対する責任を放棄するのは甘えだ」と吠えていたのを思い出しました(笑)
もちろん票が金で買われるような途上国の状態はクソです。でも「政治の中立性」なんて言葉は、政治の現実からはかけ離れているとも、フィリピンというまだまだカオスな状態の国で実感するのでした。
ランキングのご協力に、ぜひクリックをお願いいたします_(._.)_