親鸞の「悪人正機説」は偉大だと思います。突然すみません(笑)
ミャンマーで働く医師、吉岡さんの記事を読みながら、そのことを再確認しました。前回のブログがこちら。「ある日本人医師のお話」http://yoshi-jpn.com/1281/
私の解釈が正当な解釈と同じなのかはわかりませんが、親鸞の考えは、世界思想になりうる偉大な考えだと思っています。
元来の意味では「悪人」とは、仏道修行に励み悟りを開こうとするお坊さん=「善人」の対義語であり、いわゆる自分での努力を諦め阿弥陀仏の本願力に全てを任す人のことです。そしてこの「悪人」こそが救われるといいます、自分のような坊さんよりも。
時代背景の理解が必要で、ここでは武士や農家の人が想定されており、悪人とは、自分の“やるべき道”を行く人だと考えているのだと思われます。例えば、侍は家族を守るため誰かを切らねばならないこともあります。農家は、食べるために生き物を殺さねばならないこともあるわけです。そしてそこには葛藤が当然あるはずです。またそういう人は、寺に籠って、お経を読んでるわけにいかないわけですよね。親鸞は、そうした人ほど救われるべきだと説いていると解釈できます。
それはすべての現場で生きる人に向けて力をくれると私は考えています。私たちは日々の生活に追われます。そしてその生活の中で、必ずたくさんの選択を迫られます。そしてその選択は、必ず“誰かの何か”を奪う可能性を内包します。また誰かには、その選択ができないということすら想像させてくれます。
例えば、吉岡さんのようなお医者さんは、重たい命の選択を日々迫られます。仮に医師がその命の可能性を否定した瞬間、その命は本当に終わりを迎えることになります。お医者さんの例は極端にしろ、現場で働く人は、必ずそうした選択を迫られています。
こうした人に向かって、親鸞はこういっていると捉えられます。「できることをすればいい。やるべきことをやればいい。そうすれば救われる」。
現場で働く人は、葛藤する局面がたくさんあります。例えば、「この子は助けるの?助けないの?」。資源は限られています。必ず選択を迫られます。そうした重圧に負け、その場を放棄した瞬間、救えたであろう可能性を捨てることになってしまいます。何かの選択は、同時に何かの諦めなわけです。
親鸞の言う「悪人正機説」は、現実に活動をする人を肯定した、日本が世界に誇る思想の1つではないかと思います。世界の宗教などは、祈る人が偉いわけですから。祈って状況が好転するわけないことぐらいは、人生30年も生きれば十分わかります。どんな場であっても、現場で活動を続けている人、現場で真摯に闘う人は、心の底から尊敬しています。
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