政府の教育再生実行会議が、国公立大学の2次試験を廃止し、より人物評価を重視する方向に動く方向で話をすすめているそうです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131011-00000014-mai-life 以前のセンター試験改革案も含めて、うーーーーん、な状況が続きますね。
少なくとも3点ぐらいの問題が考えられるのかなと思います。
まず1点目ですが、これは受験生にとって、これまでは点数が足りなくてただ入試に落ちただけであったものが、人として問題があるとして、主観的に否定されることを意味します。
なんか会社の採用試験みたいになりますね。会社の採用の場合は、お金が絡んでいますし、仕事で向き不向きがあるし、会社のカラーもあるので、全然かまわないと思うのです。会社はただの会社ですから。しかし教育の機会が、誰かの主観で決まるのは、全く別次元の話です。
有名な話ですが、高杉晋作は変わり者でした。ただ吉田松陰は、松下村塾で彼が学ぶことを許し、やがて彼は、久坂玄瑞と並ぶ良き弟子へと成長し、日本の明治維新に貢献するのです。教育には懐の大きさが必要なのではないかと思っています、ロボットを増やすのでないならば。それならば、点数に基づくジャッジの方が良いに決まってます。人物が変でも、点数がとれれば良いのです(笑)
またツイッターのコメントでなるほどと思いましたが、ノーベル賞の田中耕一さんを、その人物評価で落とさない自信があるのかということです。以前ずっと会社の採用に携わっていた方と話したことがありますが、その方も「誰が優秀かとか成長するかとか、一部の超優秀な人材を除けば、採用段階でなんてわからない」とのことでした。これはフィリピン人との面接でもそうです。
2点目は、人生のリセットをする機会を子供から奪うということです。
子供は、時として間違います。非行に走ることもあるでしょう。それでも「大学に行きたい」と思い、その努力をすれば、現行制度では等しく大学に行けるのです。やり直せるのです。これは素晴らしいことです。なので「あなたは中学時代素行が悪かったから、うちはダメだわ」ということが言えるようになる可能性には、おおいに疑問ですね。同じ大学の再受験とか可能になるのでしょうか、すでに前年に否定されているわけですが。
3点目は、教育の格差がますます広がる可能性があるということです。
その教育システムに疑問をいだく私学の中学・高校は、知識をつけさせる独自のカリキュラムを組むでしょう。私がどこかの学校の長であるならそうします。しかしそこに行けるのは、裕福な家庭の子だけという状況が生まれます。いや、すでに生まれていて、それを助長させることになります。
フィリピンはこれと似ています。そしてフィリピンには、厳然と、階級といえるほどの格差が存在しています。
あとは余談ですが、知識偏重というほど、知識持っていました?ということです。私は全く知識なんてありませんでした。勉強する習慣も皆無でした。ただのサッカー好きのモンキー(写)なわけです(笑) それでも受験で大学に合格するために、勉強を始め、必死で頑張るわけです。それでも知識が十分になったとは思えませんでした。ただ基礎力、あとは勉強の習慣という意味で、私には良い影響があったと言い切れます。
なので、スーパーな人材を生み出したいのはわかりますが、スーパーな人材のために、環境なんてつくるもんじゃないです。だってスーパーなんですよ。スーパーな人は、スーパーなんだから環境のせいにせずに乗り越えてください。教育システム、特に公教育システムは、なるべく多くの人の可能性のために作用すべきなのではないかと私は思います。そして教師が個別に、各個人の才能を拾い上げれば良いと思うのです。
ランキングのご協力に、ぜひクリックをお願いいたします_(._.)_