子供をどこで育てますか。
このような問い、自分自身が海外に出るまで、全く念頭になかったです。それまでは日本に決まっていたからですね。あとで述べますが、多くの外国人にとっては身近なテーマであり、私が日本人だから、この問い自体を特別に感じているのかもしれませんが。
先日セブ島に友人が遊びに来ていたのですが、彼女は保育士さん。
「保育の目的は、子供たちが、これから生きていくだろう「その」社会で必要なことを教えていくこと」。
私自身、元々保育園のようなものをつくりたいと思い、新聞記者を辞めているし、まだ将来的には保育園のようなものをつくりたいと思っているので、彼女のその言葉にすごく考えさせられました。
「その」にはいろんな言葉が当てはまります。日本の場合、もちろん「日本」社会が多くの子供にとって住処になるのだから、日本社会で生きていくのに必要なことを教えていくわけです。そう。これは子供には決められない、大人に託された選択になるわけです。
少し話が逸れるかもしれませんが、この話を聞いたとき、私は一人の女の子を思い出しました。私は大学院生だったころ、塾の講師をしていて、ある中学生の女の子に出会いました。彼女との出会いが、私の教育への1つの軸になっているとも思っています。言葉や文化の習得を、生きていく中でどのように考えるかについてです。
彼女は日本生まれ、日本育ち。ただし親御さんが「これからは中国語が必要」と、彼女は小学生時代を香港で過ごしました。そして中学生になり帰国したばかりの彼女を、私は生徒の一人として受け持つことになったのです。
私の担当科目は社会科でした。ところがどうでしょう。彼女は漢字により言葉を見てだいたいの意味は推測できますし、簡単な会話はスムーズに喋れますが、漢字の読み方も、使い方も、ニュアンスもわからなかったのです。そう、彼女は日本社会で生きていくベースを失っているような状態だったのです。彼女は一生懸命勉強をしていました。私もグループの授業では彼女がついていけないのをわかっていたので、授業後、倍以上の別時間を設けて、ゆっくり個別で教えていました。それでも彼女はスムーズに理解していくことができず、テストで満足な点数も取れず、泣いていました。
かわいそうですが、彼女にもどうすることもできない親御さんが敷いたレールの結果だったのです。
フィリピンやオーストラリアでもたくさんの韓国人の子供を見ます。韓国では、母親と子供だけが子供の教育のために別の国に住み、父親が韓国に一人残り、働いているケースが一般的にあります。その結果の1つが、先日記事になっていましたが。
「韓国留学熱、父親に重圧・・・孤独・仕送り・自殺も」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131120-00000225-yom-int
答えはわからないものの、オーストラリア滞在以降の3年間、そうした韓国人の動向を見ていて、ずっと違和感に思っています。そうした親の選択した生き方が、子供たちのアイデンティティにどう影響を与えるのだろうとも思っています。単純に英語を話せればいいというような問題ではないからです。いくらグローバルと言ったところで、私達の意識には国民国家としての「国」というものがこびりついているし、制度としての「国籍」というものも明確に存在していますし。
ほんとに難しい問題だと思います。物凄く子供たちの人生のあり方を決める事象なので、これからも世の中の流れを洞察しながら、深く考えていく必要があると思っています。
これらを踏まえて、さきほどの友人の言葉に戻りたいと思いますが、子供たちが生きていく「その」社会とは、どの社会でしょう。彼女と話していて、良い悪いは別にしても、こんなことが、子供にではなく、親や子供の教育に関わる人たちに問われるような時代が、日本にも来るのかもしれない、すでに来ているのかもしれないと思いました。しかし前述の私の生徒の例もあるように、親個人に問うにはあまりにも重い問題だとも感じています。
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